混沌と喧騒の街バンコクで、日本人売人のカセが滑かに転がり落ちていく話。

フジファブリック『夜明けのBEAT』のPVで走る森山未來の姿が思い出される。

鬱屈した思いと癇癪玉を抱えるカセはなかなかの“サーラレーオ(人でなし)”だが、
そんなカセに憤りを覚えることもなく、逆に愛くるしさを見出すこともない。
そういった他者の安易な感情移入を許さない、独特な心理的距離を感じる。
「お前にわかってたまるか」のラインからそれ以上先に進めない。

カセには「配られたカードで勝負するしかないのさ」的な爽やかで前向きな類の意味合いを一切持たない、ただただフラットな「諦め」が根底にあって、現実味とか悲壮感みたいな取っ掛かりがない。

この境遇の"サーラレーオ"に共感してしまわないことこそが大切なのかもしれないと思い直す。

共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん?共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。(又吉直樹『火花』)
そう返しながら、カセはコップの水道水を口にふくんだ。ほのかな甘みが感じられ、水の粒子が味蕾の突起ひとつひとつをつつみこむようになぞり、喉元や食堂の襞を軽快に駆け抜けていく様がありありと実感できる。この世のものとは思えず、水を飲む手が止まらなかった。(P53)

大麻を吸った時のこの描写が、頭にこびりついたままだ。
水道水がこの世のものとは思えないほど美味しく感じるのなら、なるほど素面の苦悩も帳消しできるだろうか。
ここだけは、カセの気持ちが少しだが最も理解できたような気がしている。


バッドエンド寄りの余韻を残すエンディング。
ままならなさを突きつけられるこのストーリーから、私は何を感じ取ったのだろう。

読後しばらくして、"サーラレーオ"性について考えた。
私がカセを"サーラレーオ”と判断したのは、彼が癇癪玉を破裂させ、激昂するシーンだ。
「瞬間湯沸かし器」のように。
その単語はかつての上司の残像を脳裏からひっぺがして目の前に突きつけてくる。
突如怒鳴りだし、タバコを吸いに行ったかと思えば、戻ってきてやや照れ臭そうに
「ほら、俺って瞬間湯沸かし器みたいなところあるからさ。」

ヤクを売ったり、観光客に因縁をつけて金をぼったくったり、その他にも人でなしらしき行動がちりばめられているのに、逆にそれらは「そんな人も世界を見渡せばいるでしょうね」と他人事のように流れていき、"サーラレーオ”を証拠付けるのに出てきたのはカセがブチ切れる光景。

よくよく考えてみれば、他の人が読んだら”サーラレーオ”性を感じるのは私がスルーした部分かもしれない。
感情の偏りが、思わぬ形で映し出されたような気がしてどきりとする。


この最低最悪、人でなしなどかなり強めの意味を持つフレーズ“サーラレーオ”が、単行本化にあたって無事タイトルとして採用されるまでの経緯が著者ブログに書かれており、ややスピンオフ的に楽しんだ。
(以下は該当箇所の抜粋だが、それ以外の部分も面白い。)

多くのタイ人の方々から意見を集めたが、結論から言うと、出版してもさして大きな問題にはならないだろうという判断にいたった。「サーラレーオ」はたしかにヤバイ言葉だが、どうも文学的ないし古典的な香りをはらんでいるらしく、むしろ書籍のタイトルとしてふさわしいのではといった意見も聞かれたりした。


「かなりヤバいけど、文学的ないし古典的な香りをはらんでいる」って、新庄耕ワールドにぴったりではないかと思う。


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作品紹介

ひょんなことから手に入れた大量の大麻の種子。落ちぶれた男にとって、それはギフトかトラップか? 『狭小邸宅』著者による、圧倒的悪漢小説(ピカレスク・ロマン)!

日本人のカセは、バンコクでケチな西洋人に大麻を売って生計を立てている。恋人は浪費家のホステス。観光客を脅して小遣いをせびる強盗まがいの行為も慣れっこだ。あるとき幼馴染から、タイに来ているので会いたいと連絡が入る。「こっちでもバリバリやってるの? 聞いたよ、六本木で豪遊してたって」ああ、そうさ。あそこでヘマをしなければ、おれをコケにしてきた奴らを全員見返してやれたのに――。

金もツキも度胸もない、逃げ足だけは速い究極のダメ男が、タイと日本を疾走する!


  (⇨『ニューカルマ』の感想を書きました。)