失恋直後の痛みを引きずっている。

天真爛漫で無邪気な沙希が、とにかく素敵な女性で。
どれだけ魅力的か示そうとすれば、全部を引用してしまいそうになるほどで、
それをぐっとこらえて122ページの会話を引いてみる。

沙希はたこ焼きを口に入れ始めたところだったので、返答はせず「ちょっと待ってね」という顔で僕を真っ直ぐ見つめたまま口を動かしている。
「平凡というのは、編み物してる途中で寝てしまうおばあちゃん、とかな」
沙希の口の中のたこ焼きはまだ小さくならないのか、「まだ話さないで」という視線を僕に送りながら顔を上下に動かし、覚悟を決めたように一気に呑みこんだ。
「だから、わかんないよ」と沙希が言った。
「なんでわからんねん」
「わかんないよ!」
「ほな、おじいちゃんが日曜の午後に戦争の話をするのは?」
「それは、わかるよ」
「なんで、わかんねん」
「しかたないよ、わかるんだから。わたしね賢いとこあるからね」
沙希と一緒にいると才能や賢いことなどが些細なことに過ぎないと思える瞬間があった。つかの間でもそう思ってしまうことが自分の仕事にとって良いことなのかどうかはわからない。
…もっと伝わるところがある気がするけど、このシーンが好きだから、しかたない。


大体「よ」で終わる沙希の言葉は、優しくてどこか覚束ない。

永田が密かにライバル視してしまっている同世代の「天才」演出家である小峰の劇団名「まだ死んでないよ」は、沙希が言いそうで絶対に言わないセリフのように思えてきた。


永田は沙希の家に転がり込むようにして住み始める。沙希は永田の仕事を最大限に尊重し、精一杯の気遣いを見せてくれるが、その優しさは本業の劇で稼げないことの引け目を持つ永田にとっては耐え難く感じられるようになる。
沙希も次第に本来の明るさを失い始めていく。

二人が別れ話をするラストシーンは、切なくて美しかった。


オードリーの若林さんが破局報道後のラジオで
「いい恋させてもらったよ」「俺を人間にしてくれた」「私の度量の狭さですよ」などと述べていた。

これらの言葉だけを切り取るのは躊躇われるのだけども、冗談めかした少し寂しげな語り口に、
いい恋だったんだなぁ、と思った。


学生の頃、好き同士でも一緒に居られない恋があるなんて知らなかった頃、
RADWIMPSの「05410-(ん)」という曲の

もう嫌だって思っていたんなら
それでも僕はいいけど
さよならって言ったのは君なのに
なんで泣いたの

の部分の意味がわからないと飲み会で零したら、自分よりも人生経験豊富な友人たちから猛烈な批判を浴びた。

あの時は不用意なこと言ってごめん、今ならわかるよ。
変わっていく自分と変わらない相手。あるいはその逆。
もしくは変化の速度がずれていって。

相手を好きでいればいるほど自分が嫌いになっていく。


そんな二人の関係は奇しくも、永田が書いて沙希が演じた最初で最後の舞台で永田がつけた演出をそのままなぞるかのように進んでいった。

世界のすべてに否定されるなら、すべてを憎むことができる。それは僕の特技でもあった。沙希の存在のせいで僕は世界のすべてを呪う方法を失った。沙希が破れ目になったのだ。だからだ。「お前のせいやろ」
「えっ」
沙希は深刻そうに溜息をついた。
「わかんないよ、なんでだろう。ちょっと待ってね、考えるね、待ってね」
そう言って、沙希は鼻を啜りはじめた。
「待ってね、待ってね」
部屋の空気が乾ききっていて息を吸うたびに身体のどこかが痛んだ。落としどころのない愚かさだ。愚かさが堆積して身動きが取れないのに、視界はとても透き通っていて、いつまで経っても時間は進行せず終わりのない夜が続いた。


若林さんは、こうも言っていた。
「これまでいろんなことを笑いに変えてきて、先方にも言われましたよ。『今回のこと、笑いにしていいからね』って。だけど、今のとこ、そこまで笑いにできてないってのが、ただただ悔しい。」

昇華するものがあることは、ある意味幸せなのかもしれないけど、
それはやはり苦しい業で。

猫じゃらしで遊ぶように
筆をタクトのように振る
好きな人をわざと傷つけ
できたものが感動を産んだ
(あいみょん『今日の芸術』)

物語の力というのは、現実に対抗し得る力であり、そのまま世界を想像する力でもある。演劇の可能性はすべてであり、演劇で実現できたことは現実でも再現できる可能性がある。

だから永田は、別れ話をするのに、演劇という形を借りて、希望を語った。


最後の最後まで、沙希にとっては永田は必要だったと言えるのか、ずっと気がかりでいたけど、沙希は永田の表現に救われてたんだな、と知れて良かった。

いい恋だったんだな、と思う。思いたい。



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作品紹介

演劇を通して世界に立ち向かう永田と、その恋人の沙希。夢を抱いてやってきた東京で、ふたりは出会った――。『火花』より先に書き始めていた又吉直樹の作家としての原点にして、書かずにはいられなかった、たったひとつの不器用な恋。夢と現実のはざまでもがきながら、かけがえのない大切な誰かを想う、切なくも胸にせまる恋愛小説。
(新潮社作品ページより)